川上未映子さんのブログで、「乳と卵」のサイン会の告知をみつけて、
狂気狂乱!
麗蘭のサイン会、行きそびれたアタクシですからね。
もう、この時の喜びって、なんつーか。
まさに、捨てる神あれば、拾う神ありよな。
(ま、別に捨てたわけではないのだが。。。)
その、行きそびれた理由ってのが、
ネット上でのコミュニケーションにウンザリ来ていたっていう。
本来、こんな日の為にアタシは蘭丸の、麗蘭の記事を
ブログでせっせと書き綴っていたと思う。
ひとつのライブを一緒に体感した方が、
何かのひょうしか、偶然だか、必然だかで
私のブログをみつけて下さり、みつけたり。
そうだ。アタシはこの日の為に書いてきたのだ!(笑)。
なのに、ちょっと疲れてしまったということ事態にも
かなぁ〜り、行きそびれネタになってしまっていた。
でも、そんなアタシを癒してくれた文章も
川上さんのブログでみつけたよ。
『残りの人生、もう冗談しか云いたくないわけよ』(今回、そのまんまタイトルを頂いた)
ちょっと、引用しますね。
冗談なんて厭だよ!馬鹿にしてる!傷つけあってもいいじゃない!ほんとうの相互理解なんかないかもしれないけれど、でもぎりぎりまで近づこうよ!あきらめないんだからね!それが愛なんだからね!っていう熱い姿勢も好むところであるが、往々にして空回りというか、歩み寄りたいとは云ってるものの、つまり自分の主張で論破したいのではないにしろ、(それは往々にして論理で議論されているのではなく感情でせめぎあっているのだからそもそも論破も何もないのだが)結局は「この私の考えを、色々あるけど、認めてほしい」というところに行き着くのが殆どで、そういうのはなんか度を過ぎると、見ていてしんどくなるのは何故だろか。
ソクラテスみたいに自分が絡みながらも、議論のお題だけを慎重に取り扱って、その問題の為だけに議論をして、昇華させるのは、やっぱり誰にでも出来るわけではない。議論に勝ち負けなどそもそもあるはずもない。
ひるがえって「名前をきちっと出して何かを表現することの覚悟と責任を」というのも理解できるけど、それだって結局じかに会ったりいろんな話したり、気持ちや思い出を作っていったり、じかに触れるのでなければ、実質的に記号の域を出ないんじゃないかなあと思ったりもする。もしそこに名前以上の情報があったとしても、互いの生活に拘わろうとする意思がなければ、その人の何を知ったことにも、覚悟に触れるということにも、ならないのではないかな。
冗談ばっかり云うて、ふざけて人生、生きていきたい!
っていう文章ではないデス。
(お時間に余裕のある方はリンク記事もお読み下さい。)
川上未映子さん、ありがとう。
サイン会でお逢い出来る日をたのしみにしております。